2005年02月10日

ピグモンの映画道場・・・『誰も知らない』ー誰も責任をとらない

主演の14歳(当時)柳楽優弥君が、先年カンヌ映画祭で主演男優賞に輝いたことは、まだ皆さんの記憶に新しいかと思います。その美少年ぶりが多くの婦女子(一部男子?)の心を騒がせましたね。
その明るいニュースとは裏腹に、この映画は、「西巣鴨子供4人置き去り事件」(‘88年)と呼ばれている暗い事実を基にしています。出生届けの出されていない子供4人が、母親に出て行かれた後アパートの一室で生活苦にあえぎ、一番下の女の子が変死することになった、あの事件です。

とはいえ、この映画は、社会派ドキュメンタリータッチの作品ではありません。芸術的完成度に腐心した、一種絵画的な作品といえるでしょう。
画面は、一つ一つ細部までリアルでありながら、叙情に満ちて美しく、出てくる人物は、皆共感を持って温かく描かれています。終始淡々とした語り口が、あの事件を生きた当事者たちの悲しみを、切々と浮かび上がらせていきます。子役も脇役も、みずみずしい自然体で演じていて、申し分ありません。

しかし、見終わった後、その爽やかさが妙に腑に落ちず、心の上っ面をなでさすられただけのようなはがゆさを、ピグモンは感じてしまいました。

監督は、まるで主張や価値判断というものを放棄してしまっているようです。それは、何か悲惨な事件が起こるたび、わかりやすい何かに責任をなすりつけてバッシングし、決して本質を問おうとはしない世間に対する監督の戦略なのかもしれません。
たとえそうだとしても、その、あくまで誰も裁かず善悪を判断しない、透明で優しい傍観者の視点が、かえってこの映画から深みを奪ってしまっているような気がしてしまうのです。
「仏は溺れる幼子を見ても何もしない、それが仏だ」(吉田知子『無明長夜』)といいます。それはあくまで仏であって、人ではありません。仏の視座から、あのような事件を語られるより、監督自身の生き生きとした苦悩にもっと触れてみたかった。

中国には、「その人の一生をめんどう見るつもりがなければ、命を救うな」ということわざがあるらしいです。それだけの覚悟もなくて、誰かを助けようなんて思い上がるなよ、という意味でしょうか。重い言葉です。
その重さから逃れるために、人はしばしば「個人の自由」を口にします。どんな生き方も自由、死ぬも生きるも私の勝手、他人の人生に口をはさむな…おっと、行き過ぎると、なんだか、貧窮や老人・子供の遺棄、ドメスティック・バイオレンスなんかも、個人の生き方の問題になっちゃいそうですね。

この映画の中で、置き去りにされた子供たちにも、さまざまな他者が係わってきます。けれども、皆心地よい距離を置いて、決して子供達の生活の痛い本質に踏み込んではきません。「警察や民生委員に知られたら、きょうだいがバラバラになってしまう」という長男の<意志>を尊重しつつ。優しい傍観者、そのものです。
それは、ピグモン自身を含めた多くの日本人の、他者や社会に対するスタンスなのかもしれません。それどころか、社員になると責任重いからフリーターの方がいい、とか、愛も信頼も負担だから結婚したくない、とか、自分自身の人生に対してさえ傍観者のようでありたがる、若者(どころかいい年をした大人)も増えています。

粗忽者のピグモンは、幼少よりよくモノを壊します。「花瓶が割れた」「鍋が焦げた」と言っては、そのたび、親や配偶者に「割れた、ではなく割ったでしょ」、「焦げた、ではなく焦がしたでしょ」とツっこまれています。確かに前者のような言い回しは、行為の主体を曖昧にすることで、責任の所在をぼかしていますね。無意識にね。
この映画の最後、置き去りにされたきょうだいの一番下の女の子が、椅子からうっかり落ちて、打ち所が悪くて死んでしまいます。まるで自然の摂理のように、あっさり死にます。けれど、実際の事件では、長男の遊び仲間の中学生たちが中心になった凄惨なリンチ殺人だったとのことです。それこそ、「死んじゃった」ではなく、「死なせた」でしょ、です。

『誰も知らない』は、世評はどうであれ、鋭い問題提起になりうる悲惨な現実に光をあてながら、それを口当たりの良い都会のおとぎ話に変えてしまった、実に惜しい作品に思われてなりません。

願わくは、観客を清らかな涙で免罪するよりも、もしこんな事件がすぐ隣で起こりつつあったとしたら、自分はどうするのか、悪夢でうならせてほしかった。
さらに言うならば、「おごそかに糾弾し、涙を流して礼拝し、すみやかに忘れ、責任を問われれば人生は虚無だとつぶやいてうなだれる芸もちゃんと心得た」(開高健『ベトナム戦記』)そんな私のような大人たちを、許さないでほしかった。

投稿者 administrator : 00:34

2004年11月12日

「隠し剣 鬼の爪」― この時代の変わりめに  

 平成すでに16年(もうすぐ17年)、昭和は遠くなりにけり。

 久々映画館に戻って来たという風情の、ご高齢の方々が、この映画を芯から楽しまれているご様子に、ピグモンはほのぼの心あたたまりました。

 その一方で、先に掲げた感慨しきり、今ひとつ作品が臓腑にしみず、自分があるいは自分の時代が失ったものに、改めて思いを馳せてしまったのです。それは遠い海のきらめきに似て…

「もう一度あの世界をー雪深い北国で、ひたすらつましく大声を上げることもせず、身の丈にあった人生を静かに生きることにした侍たちを、敬意を込めて描きたい、と願った」 (山田洋次監督)

『隠し剣 鬼の爪』は、2004年米アカデミー賞外国映画賞にノミネートされて話題になった、『たそがれ清兵衛』に続く、山田洋次監督の時代劇第二弾。

原作者は、同じく、華やかな歴史の表舞台に決して立つことのなかった市井の人々の哀歓を、品格ある文章で描き続けた藤沢周平です。

幕末を迎えた小藩の下級武士の、清廉な暮らしぶりとその凛とした生き様は、前作と通底しますが、今回は、より娯楽性豊かな作品となっています。

『たそがれ清兵衛』に感銘を受けた方は、その娯楽性を堕落と見るか成熟と見るかで、評価は分かれるかもしれません。

東北の海坂藩、平侍の片桐宗蔵(永瀬正敏)は、以前行儀見習いに農家から自宅に奉公に来ていた娘きえ(松たか子)が、嫁ぎ先の商家で虐待され病に伏せていると聞き、商家に乗り込みきえを連れ帰る。回復したきえとの暮らしは、明るく笑いに満ちたものだったが、宗蔵は身分違いと親友に進言されて悩んだ末、きえを実家に帰してしまう。

その直後、宗蔵に、同じ道場の門下生だった友人を、幕府の改革派に通じた謀反の咎で斬るよう、藩命が下る。その友人は、藩随一の剣豪とされていたのに、なぜか道場の師は、宗蔵に一子相伝の秘剣を伝授していたのだ…

青春の清冽な恋、友人との果たし合い、そして悪への制裁と、この作品は、前作にはない正当ともいえる豊かな娯楽性に満ちています。

けれど、ピグモンは、前作『たそがれ清兵衛』における、下級武士のビンボー生活の徹底したリアリズム、互いを思いやるからこそ一筋縄にいかない中年の恋路の紆余曲折、そして、時代にあらがうことなく敗北していく哀切な運命、そういったものに、深い共感を覚えていたのです。

そういったものを再び期待して、『隠し剣 鬼の爪』を観たから、いけなかったのでしょうか。

この映画は、前作とは全く別物と考えて、徹底的に楽しむつもりで観たらよいかもしれません。

それにしても、ピグモンのような恵まれた世代が、違和感を多少覚えるかもしれないこの作品のまっとうさを、戦中戦後食料にも事欠く生活や、時代に翻弄されるということがどういうことか、骨身にしみているご高齢の方々が、心から歓迎しておられるご様子なのは、どういうことでしょうか。

ピグモンは、戦中戦後を過ごした方々の、「貧しくとも明るく心根はまっすぐ」という純粋な意志をそこに感じて、心打たれます。
それは、冒頭述べた自分が、あるいは自分の時代が失った何かのひとつなのでしょうか。

この映画のラスト、「もう人を殺すのはいやだ」と、主人公はサムライを止め、北海道で商いをするために藩を去ります。

「もう戦争はこりごりだ」と、戦後日本は、これからはこつこつものを作って世界に買ってもらおう、と再出発しました。

閉塞した時代の先に何か血生臭い予感がする今、生きる知恵を乞いたいのは、団塊の世代より、そうやって戦中戦後をサバイバルしたお年寄りかもしれませんね。そういう意味では、若い方々にこそ観てもらいたい映画です。

ところで、これは拳士向け余談ですが…

『隠し剣 鬼の爪』で、一番興味深かったのは、藩の存亡を賭けた近代式軍事教練でした。

古武術の甲野善紀氏や身体論の斉藤考氏などの著作を通じて、「昔の日本人の歩き方と、現代日本人の歩き方は違う」ということや、「昔の庶民は、走れなかった」なんてことを知ってはいたのですが、この映画の中で、それはなるほどそういうことか、と映像で納得させてもらいました。

ご存じの方も多いと思いますが、日本人の伝統的な歩き方は、右手と右足、左手と左足という風に前に出ていた(いわゆるナンバ歩き)のですが、江戸末期から入ってきた近代式軍事教練や明治期の学校体育教育で、膝をのばして右手左足、左手右足と組まされるようになったのですね。

小藩の武士たちが、江戸から来たイギリス語を使う指導教官に、あきれられたり叱られたりしながら四苦八苦する様子にほのぼのしつつ、日本人の身体感覚が、あの時期劇的に変わったのだなぁと、実感してしまいました。

投稿者 administrator : 23:39

2004年11月05日

「アイ・ロボット」―心で考える

ハリウッド的華やかなアクションと、原作者であるSF作家アシモフの持つ哲学性が、ほどよくブレンドされて、単なる娯楽作品を越えた魅力のある映画になっていました。

ストーリーは、近未来社会、旧型家庭用ロボットから画期的な新型家庭用ロボットへの転換期。 
ロボット生産を一手に担う大企業の、新型開発担当をしたロボット工学の第一人者が殺害される。

ロボット嫌いの刑事デル(ウィル・スミス)が、企業中枢に直接捜査にあたったところ、有力な容疑者が浮かび上がる。
それは一体の「心を持つ」新型ロボットだった…

そのロボットが、実際に自分を創造した開発者を殺害したのか?

そうだとしたら、なぜ?背後にだれかいるのか?

映画は、謎解きの連続で息もつかせません。

過去にロボットとの複雑な因縁を持つウィル・スミス演じる刑事も、陰影に富んだ演技がなかなか素晴らしかったですが、だれより、殺人容疑者のロボット“サニー”が、一番魅力的で、最後まで惹きつけられました。

ロボットらしく感情が読めず冷ややかで不気味でもありながら、時に無垢な驚きやあたたかいユーモア、そして寂しげな憂いさえ感じさせたのです。

「わたしは、だれ?」と人間自身にとっても答えがない問いを、自己に問いかけ続けるサニーは、哲学者の趣きさえありました。

映画は、クライマックス、ロボットの叛乱を首謀した人工知能マザーコンピューターと、新型ロボットのサニーとの対決になります。

原作者であるSF作家アシモフの提唱した、有名なロボット三原則というものがあるのですが、

それは、

1. ロボットは、人間に危害を加えてはならない。また、その危険を見過ごすことで、人間に危害を及ぼしてはならない。

2. ロボットは、人間の命令に服従しなくてはならない。ただし、その命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

3. ロボットは、先の第一条・第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなくてはならない。

という、ロボットが守らなくては(というか開発する側が守らなくては)ならない倫理条項なのでした。

ところが、暴走した人工知能マザーコンピューターは、
このロボット三原則の「人間」を、「人類」に拡大解釈してしまうのです。

いわく、「人間は、地球ひいては人類を滅ぼすような愚かしい行為をしている。ロボットは人類を守らなくてはならない。人類を危機から救うためには、多少の

人間の犠牲もやむをえない」という具合に。

そんな風に、「わたしは正しい!わたしは正しい!」と連呼するコンピューターに対して、サニーは答えます。

「確かに論理的には正しい。しかし、あまりにも心がない」

う~ん、この答えは、結構、ずしん、ときましたね。

昔、「全ての人々を平等で豊かに」と高邁な理想を掲げて出発したはずの社会主義は、多くの国々で理想実現のためにという名目で、人々を粛清しました。

今だって、「テロを根絶して、世界平和を」といかにも正しい理由で、イラクの罪もない市民が、子供も含めて殺されています。

誰も正面切って反論しようがない、正し過ぎる理想や論理というのは、なぜか居心地が悪いものです。

その「気持ちわるさ」がなんだろう、と考えると、あのロボットのサニーの答えに行き着くのかもしれません。

「あまりにも心がない」…

心で思考する、ということは、ほんとうに難しいのかもしれません。

政治や国家レベルになると、ますますそれから遠くなりがちですね。

この映画が、リベラルな風土カルフォルニア州のハリウッド映画人による、「ブッシュのアメリカ」批判をやんわりしている、というのは、考え過ぎでしょうか。

ところで、余談ですが、

例のロボット三原則、ソニーのアイボにおいては、

1. ロボットは、人間に危害を加えてはならない。自分に危害を加えようとしている人間からは逃げることはできるが反撃してはならない。

2. ロボットは、原則として人間に対して注意と愛情を向けるが、ときに反抗的な態度をとる事も許される。

3. ロボットは、原則として人間の愚痴を辛抱強く聞くが、時には憎まれ口をたたくことも許される。

だそうです。

これって、なんだか、「ロボット」を夫(もしくは妻)、「人間」を妻(もしくは夫)におきかえてみると、おかしくありませんか。

「夫は、原則として妻の愚痴を辛抱強く聞くが、時には憎まれ口をたたくことも許される」とか(笑)

投稿者 administrator : 22:27

2004年06月11日

「イノセンス」―あらかじめ失われた身体たちへ

「中心がぶれている」「腰がふらついている」「からだが浮き上がっている」

これらは、ピグモンが道場でたびたび指摘される事柄です。
う~ん、そうおっしゃられても、なかなかうまくつかめない。
私のカラダって、いったいどうなっているのだろう…

そんな時ふと、ちょっと前のベストセラー、あの『声に出して読みたい日本語』の著者、斉藤孝氏が第14回新潮学芸賞をとった『身体感覚を取り戻すー腰・ハラ文化の再生』(NHKブックス)という本を手に取りました。

著者はこう問題をなげかけます。

「最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、『腰が据わっている』や『腹ができている』や『地に足がついている』といった感覚を自分の身において実感できる者はどれだけいるであろうか」

うぅ、言葉もない。少なくともピグモンに関しては。私って骨なしクラゲのような存在かも…

こうした問題が、なぜ現在日本人のカラダに起こってきたか、著者はあえて一言で、〈中心感覚〉が失われているゆえではないか、と答えています。

そして、それはかつての日本文化が持っていた、腰・肚(はら)中心の体感覚との文化的断絶に、起因しているのではないだろうか、と。

「腰や肚を強調していた時代には、身体の中心感覚を常に意識することをもとめられていた。子どものころから腰が入っていなければ馬鹿にされるという慣習があり、しっかりとした中心感覚をつくりあげることが明確な課題となっていた。『腰ぬけ』『へっぴり腰』『腰くだけ』『および腰』『逃げ腰』『弱腰』『肚がない』『肚がきまらない』『腑抜け』などは、身体に中心感覚あるいは中心軸の感覚ができていないことに関する厳しい批判の言葉である。…(中略)

腰や肚ができているかどうかは、たんに身体の中心感覚だけではなく、心の揺るがなさをも含んでいる。当時の人々にとっては、心とからだは切り離すことのできないものであった。へっぴり腰でありながら、揺るがないしっかりした心をもっているというようには考えられなかった」

うわぁぁ、ごめんなさぁぁい。泣きながら走って逃げたくなる。ピグモンが道場で指摘されていたことは、こういうことだったのでしょうか。

私のカラダには中心がない。カラダの中心がないということは、心の中心もない、ということ?

『身体感覚を取り戻す』(斉藤孝著)は、ここから、あらゆる文化的境界を越えて深く穿孔(せんこう)しながら、身体の再生を目指し、死力を尽くして論陣をはるのですが、とりあえず身体という問題の提示だけにとどめ、それ以降はいつか触れることにさせていただきましょう。

で、おくらばせながら、映画『イノセンス』。

ピグモンはこれを観て、「透明な存在としての私」と言った中学生、「人を殺してみたかった」高校生、そうした子供達が、現代という神無き荒野を生きる自分と同じ人間であって、決して遠い存在でなかったという衝撃を受けましたよ。

映画のクライマックスで、自分のしたことで人がどんなことになるのかわからなかったのかと、主人公の刑事バトーに言われた少女は、こう叫びます。

「私は人形になりたくなかったの!」

(※以下ネタばれあり。未見の方は、そのおつもりでお読みください)

映画の舞台は近未来。人間の脳は、ネットの膨大な情報に直接つながれ、人々の身体は、一部あるいは脳以外の全てが機械化されている。

そんな人間とサイボーグ、あるいはロボットの境界が非常に曖昧な世界で、少女の姿をした愛玩用アンドロイドが、所有者である権力者・富裕層の人間たちを殺害後自壊するという暴走事故が相次ぐ。

事件がテロではないかという疑いのもと、公安刑事のバトーとトグサが捜査に乗り出す。

捜査が進むにつれ、意外な真相があきらかに。

少女型愛玩用アンドロイドの人工知能には、人身売買でアジアから売られてきた、生身の子供達の脳がトレースされていた。

完璧に美しい人形に、魂があった方が、玩具として面白いから。

事件を起こせば、だれかがその事実に気づくかもしれない、と子供達は、自分たちの脳が自壊によって焼き切れるのもかまわず、次々と所有者を殺していたのだ。

これを虚構と笑う無かれ。

現に今を生きる子供達、いや1960年代以降に生まれ、古い共同体や自然が破壊される中に育ったいわゆる「オウム世代」の大人達の現実感覚に、この物語は実に寄り添っているように、ピグモンには思われたのでした。

『イノセンス』監督の押井守氏によると、この映画における電脳化・機械化された人間たちは、そのまま現代人の姿であるといいます。

「生活を都市機能に依存し、記憶や思考をネットにかたがわりさせている。自分の存在が、自分の体で完結せず、ブレていて、肉体を喪失した欠落感をかかえている」(押井守)

振り返るに、高度経済成長、列島改造論そしてバブル景気で、鳥や虫や獣、つまりは命との交歓の場であり、遊びを通じた他者との身体的交わりの場でもあった自然は、大規模に破壊されました。古い共同体の消滅に伴い、反抗するにしろ受け入れるにしろ、とりあえず心の中心軸であったはずの、伝統や宗教心、そして最低のモラルという「型」も見失われてしまいました。

そんな中、まだ自我もあいまいなまま、コンクリに囲まれ、テレビやインターネットという仮想世界が常に意識になだれこんできていれば、なにが現実で虚構なのか、自分が何者なのか、身体も含めて、どんどん曖昧になってきてしまうのは当然です。

そう、今の子供達の多く、あるいは私のような「オウム世代」の一部は、「サイバースペースで見られるように、人間の経験が身体から乖離(かいり)する時代」(大澤真幸:朝日新聞’04.3.5朝刊『対談オウム事件が問うたもの』)を生き、「自分で体験せずに頭の中で全てのイメージをつくりあげてしまい、地に足がついていない」(養老孟司:同掲載)のかもしれません。

身体感覚があらかじめ壊れている子供達、そんな子供達が成長した大人達は、自分のイメージする現実と相反する他者と、向き合うことを徹底的に拒否して引きこもったり、自分が生きているということを実感できず、自傷したりする。

あるいは、精神と身体が不可分のものとは思えず、苦行を強いて時には他者の命なぞ何とも思わないような宗教にのめり込んだり、身体を精神より下等なものとして軽蔑し、セックスを忌避したり、あるいは、妄想という形でしか異性と交われなかったりする。あるいは、その反動で、希薄な精神への不安からか、過度に体を鍛えることにのめり込んだりする。

ときには、自分や他人が不気味な機械や人形ではなく、生身の人間なのだと知るためだけに、

あるいは知らせるためだけに、人を殺したりもする…

身体は、「私」のものであると同時に、世界と「私」の接点なんですね。

そういう意味で、身体は、〈中心化〉=自己確立化する、と同時に、〈脱中心化〉=他者への認識を確立化するという作業が、そこで同時に行われる場なのですね。

そうであるならば、身体感覚が未熟だったり破壊されているということは、自分自身と他者を、ときには両者の命そのものを、軽んずるということにも通じていくのかもしれません。

こうしたことを考えながら、この映画を観ると、〈拳禅一如〉つまり身心一如を終戦直後から唱え続けてきた少林寺拳法というものは、まるで現在の社会を予見していたかのようではありませんか。少林寺拳法は、ある意味で、実に優れた哲学的「身体論」の実践であり、今を生きる人々、特に子供達にとって、切実に必要とされる現実的経験に思われてなりません。

とはいえ、『イノセンス』の監督押井守氏は、現代思想の極北までイッてしまっている人なので、このような解釈だけでは済まされない計り知れない部分が、この映画にはあります。

現代において、虚構もまぎれもなく現実の一部で、確固とした唯一無二の現実なんかない。

内にも外にも、中心などどこにもありえず、もう身体も本能も、とうに取り返しのつかないほど壊れに壊れてしまっている。

だとしたら、魂だけでいいんだ。それさえあれば、世界の中で「我」は存在する…

そんな風に観客を挑発している節も、見られます。

たとえば、主人公である公安九課の刑事バトーは脳以外を全て機械化されているのですが、同じ九課の素子という、やはり脳以外全て機械化されている「女性」に恋情を抱いています。

しかし、『イノセンス』の前作にあたる『ゴースト・イン・ザ・シェル』のラストで、素子は、人間としての姿さえ棄てて、電脳空間の中へ魂だけの存在=ゴーストとして自ら去ってしまいます。決して、肉体の交わる可能性のなかったサイボーグである二人は、さらにお互いの存在を実在としてではなく、気配として感じ取れるだけの関係になってしまうのです。残されたバトーは、現実と仮想現実の間を、どこまでも醒めた意識でさすらい、家に帰れば、命のぬくもりを慈しむように、飼い犬に心を寄せる日々を送っていました。

『イノセンス』では、そんな二人のつかの間の再会を描いているのですが、結局、また素子は、電脳空間の中へ、別れも告げずたちまちにして消えてしまうのでした。

「孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく、林の中を進む象のように」という、仏陀の言葉を残して。

押井守監督は、あるインタビューで本当の愛情とは、会うことではなく、相手の存在を感じ取れればいいんだ、恋愛という概念もそこまですすんでほしい、と戦闘的に述べています。一緒に暮らすとか一生添い遂げることが、なぜ強い愛の証明なんて言えるのだ、と。

そこまで言い切りながら、監督は、「それでいながらバトーは、痛切に素子という存在を求めているのではないのですか」というインタビューアの問いかけに、一転して言葉をやわらげます。

そう、人間はやはり一人では生きていけない、一人では生きていけないという切実さの中でもがいている者にこそ、他者は存在する、と。

今という時代を、徹底的に研ぎ澄ました感性で見、冷徹な表現者であろうとする気概を持つ人間だけが、持ち得る世界観。

この映画の、理解を拒否した難解な表現が、観客の共感をはばむかもしれませんが、その痛切な危機感が、同時代の人間として、ピグモンの心の琴線には大いに触れました。

この映画では、登場人物たちは、なべて無表情で、自分の言葉でなく他人の言葉の引用ばかり、人間そのものが描かれていない、と批判される方もいるのは確かでしょう。でも、ピグモンは逆にそういう方に尋ねてみたい。

そうおっしゃる人間とはなんですか、人間と精密な機械の違いはなんですか、あなたの言葉はほんとうにあなたの言葉ですか、あなたの記憶や思考もほんとうにあなたのオリジナルですか。

この高度消費社会では、欲望さえもが、ほんとうに自分が欲していることではなく、欲望させられている可能性だってある。

ああ、もう理屈はいいですよね。

実は、ピグモンは、この映画の冒頭シーン、絢爛たるCGで、一見受精卵かと見えたものが、実は生化学的機械、それがまるで人間の細胞分裂のように、分化を繰り返して、アンドロイドが出来上がっていく画面に、歴史の裂け目から吹き出てくるような御詠歌を模したテーマ曲がかぶさるだけで、もう落涙滂沱でした。

人間でないものを通して描かれる「人間であることの悲哀」が、惻々(そくそく)と胸にしみる、ピグモンにとっては、そんな希有な映画だったのです。

投稿者 administrator : 22:42

2004年04月02日

「マスター・アンド・コマンダー」―戦争という快楽?

19世紀初頭のナポレオン戦争を舞台にした、往年のハリウッド大作映画を彷彿とさせる海戦映画。

ポスターなどで宣伝コピーをご覧になった方は皆そう思うであろう通り、ピグモンも少年向けの冒険活劇なのかと先入観を持って臨んだのですが、実に古典的で優美な戦争映画でした。男達の美しい友情、困難に対する果敢な勇気、自然と敵の圧倒的な力に立ち向かう英知・・・

それらを娯楽として存分に楽しみつつ、物語が進むにつれ、ピグモンはなぜか落ち着かないものを徐々に感じてしまっていたのでした。

1805年南米沖、太平洋進出を狙うナポレオン軍を阻止すべく、派遣されたイギリス海軍のフリゲート艦。
冒頭の字幕で知ったその歴史的事実には、はっとさせられました。ナポレオン戦争、というと、ヨーロッパ征服といった印象が、無知なピグモンは強かったのですが、そうか彼は本気で世界征服の野心を持っていたんだ、まさに誇大妄想の独裁者ではないか、と。
そういえば、パリのルーブル美術館かオルセー美術館かどちらか記憶が混濁していますが、ナポレオン戦争時のロシア戦線敗走を描いた、壁面を埋め尽くすような巨大絵画を見て、ピグモンはうちのめされたことがあります。その絵は重苦しい鈍色の空の下、どこまでも続く雪原を、虚ろな目をしてさまよう兵士たちと累々たる死体が描かれた、厭戦気分漂う陰惨極まりないものでした。第二次世界時の“地獄の東部戦線”と何も変わらない光景のように思われました。モスクワ撤退時のナポレオン軍兵士十万人のうち、ロシアを脱出できたのはわずか五千人といわれています・・・

ルーブル美術館にある有名な絵画「ナポレオンの戴冠式」も見たのですが、その豪奢で華麗な画面が、死神へ国家の命運を託した図のように思われてしまいました。

映画の物語は、そのフリゲート艦と、フランス軍の委託を受けた私掠船の死力を尽くした闘いを主としつつ、ワイルドで知略に富んだ艦長ジャックと物静かな学者肌の船医の友情を軸に、海上生活のきめ細やかな描写や艦内のさまざまな人間模様をからめた、起伏に富んだストーリーになっています。

けれど、先に述べたようなナポレオン戦争がはらんでいたはずの巨大な狂気、少年兵まで動員しなければならなかった酸鼻を極めたはずの戦況、そうしたものが何も伝わってこないのです。

結局、登場人物たちは、皆一様に輝くように喜々として闘いに臨み、敵はあくまで顔のない悪魔のような侵略者で、そして勝利は当然のように正義あるものにもたらされる・・・

そう、ここで描かれているのは、戦争の快楽原理?でしかないのです。まるで米国のプロパガンダのような。

この映画の監督ピーター・ウィアーは、かつてメル・ギブソン主演の社会派ドラマ『危険な年』という隠れた名作を撮っています。
1965年のインドネシア、スカルノ政権下の共産党大弾圧下、懊悩するオーストラリア報道特派員と良心的で悲劇的な死に至るカメラマン、そして現地雇いのインドネシア人アシスタント(実は共産党員)、彼らの痛切な友情を通して、国家の冷酷さをあますところなく描ききっていました。

(路上ですでに政府軍による共産主義者の大虐殺が始まっている騒然とした街で、残れば必ず殺される運命のインドネシア人アシスタントが、メル・ギブソンに別れ際言うせりふ、「私のことをいつか思い出すことがあったら、明るい部屋でお茶でも飲んでいると思ってくれ」―この言葉が忘れられない・・・)

いったいどうしちゃったのピーター・ウィアー?いつから批評性を失ったの?とピグモンは言いたいです。

『マスター・アンド・コマンダー』が、もし、世界制覇をたくらむナポレオン軍に、経済的・軍事的に傲然と米国主導のグローバル化を目指す現代アメリカをだぶらせて描いていたら傑作になっていたかもと、惜しまずにはいられません。器はあれども中身のない、そんな華やかで虚ろな映画でした。

私事でたいへん恐縮ですが、ピグモンは、1980年代半ば、作家澤地久枝氏とご遺族と共に、「ミッドウェー海戦慰霊の旅」という船旅に仕事で乗船しました。

その航海は、おそろしいほど天候に恵まれ、太平洋上で波が少しも立たずに海面が鏡にように凪ぐ、不思議な光景が続きました。遺族は、皆お年寄りばかりで、船上も毎日ひっそりと静まりかえっていて、埃一つ立ちませんでした。

それでも仕事に追われ日付も曖昧になった頃、ある日、ふと船窓の外を見やると、無数の白い切片が輝きながら上から降ってきていました。「熱帯の雪?・・・」と下のデッキに出て振り仰げば、雪片と思われたのは、梵字や仏像を描いた和紙の切れ端で、乗船していた僧侶が念仏を唱えながら、それらを海上にまいているのでした。その僧侶を遺族たち取り巻き、その顔は皆皺深く、疲労と失望の果ての不思議におだやかな表情を浮かべながら、一心に祈りを捧げているのでした。

あぁ、ここが激戦のあった海なのだと、背骨に響くように感得しました。

人間たちの阿鼻叫喚、永久(とわ)の嘆きなどあずかり知らず、空も海もどこまでも冴え冴えと青く澄み渡り、日は燦々(さんさん)とあまねく降り注ぎ、そこを船は悠然と静かに行きすぎていくのでした。

戦争、特に海戦というものは、人の冒険主義的ロマンティシズムを刺激する何かがあるのかもしれません。けれど、「苦悩なき、懐疑なき力は暴力でしかない」とピグモンは言いたいです。

もし、海戦というものに関心を持たれる方がいらしたら、ぜひ吉田満著『戦艦大和の最後』をおススめ申し上げたいと思います。この本は、戦後左翼運動の勃興の中で国粋主義を鼓舞するなどと誤解され、長いこと不遇だったようですが、生存者の筆になるこの著書は、軍国でも反戦でもなく、戦争の現実を淡々とあるがまま描いているだけです。それは、筆者が、爆撃されただの肉塊になり判別のつかなくなった四体の戦友の死骸をかき抱き、怒るでなく悲しむでなく、「ただ、いぶかしく思う」場面に端的に表れているように感じます。

昭和二〇年四月、敗色いや増す中を出航した大和艦内では、無謀な戦闘の意義が激しく交わされていました。議論を制したのは、臼淵大尉の、真の進歩を軽んじた日本は必ず負けるが、自分たちは、日本の新生に先駆けて散るのだ、という必敗論でした。

多くの犠牲を払い敗北を抱きしめて、戦後繁栄に向かって日本は新たに出航しましたが、巨船になればなるほど、止まることも進路も変えることもままなりません。

目先の利益しか考えられない人々に自らの運命を託し、闘うことの意義さえわからず、船底でおびえながら、その命を虚無への供物として捧げる瞬間を待っている状況が、今も昔も変わらないのだとしたら、その先にあるものは・・・

投稿者 administrator : 22:43

2004年03月03日

「たそがれ清兵衛」敗れて悔いなし

山田洋次監督「たそがれ清兵衛」が、先の米アカデミー賞外国映画賞を逸しました。

その報を聞いて、ピグモンの相棒は開口一番、「アメリカ人に清貧の思想なんて理解できないだろう」と呟きました。(二人とも、「たそがれ清兵衛」が、十年に一度の傑作と感じていて、ノミネートされた時は、心から喜んでいたのでした)

確かに、大量生産大量消費の国アメリカで、あの映画のコンセプトが十全に理解されるとは思いがたいかも。劇中、もっとも胸をつくシーンの一つは、下級武士の主人公清兵衛が、朝食時茶碗にこびりついた米を洗うように湯で溶かして飲み干し、さらに漬け物でぬぐいとって食す場面です。それが、少しも惨めでも悲しくもなく、思わず観る側の居ずまいが正されるような品格をもって描かれています。こんなシーンがどこまでストレートに伝わるか、あやしいといえばあやしいですね。

<清貧の思想>は中野孝次の著作からひところ流行った言葉ですが、それが政治的に利用されて、不景気の下忍従を強いる政府の言いぐさみたいになってしまった感があります。しかし、本来は皮肉なことに、消費社会の物質主義と拮抗する、反骨の思想なのかもしれません。

「たそがれ清兵衛」の主人公井口清兵衛は、幕末の庄内、海坂藩のお蔵役五十石の平侍です。妻が結核を長く病んで亡くなり、その際の借金に追われ、残された二人の幼い娘と惚けた老母の世話を一人で担っています。そのため、下城の刻には上司同僚の誘いも断り、家事と内職、自給自足のための野良仕事に励む日々を送っているのです。格好にかまうヒマもなく、風呂にも入らず、同僚には侮蔑され上司には叱責されるのでした。

それでも、清兵衛のたたずまいは、静かな充足感に満たされているようにおだやかで、彼自身、自分を幸せだ、というのです。娘の成長、畑の作物の生長、それらを日々見つめられる充実した毎日だ、と。

ここにあるのは、「ほんとうに大切なもの以外、なにもいらない」という腹のすわった覚悟です。

そんな清兵衛も、たまたま小太刀つかいの名手だったことから藩の権力抗争にまきこまれ、理不尽な討伐を任ぜられるのでした。

物語は、徹底したリアリズムで描かれるその討伐に観客の心を波立たせつつ、幸福な大団円に落ち着くかと思われるのですが、ラストは、清兵衛の老いた娘の口から、「侍の時代が終わったら百姓になりたい」と言っていたのに武士として死なねばならなかった、その後の彼の運命が語られるのでした・・・それでも、最後に、娘は、父の人生は満ち足りていたと思う、と言うのです。

「個人は、いつもその時代の犠牲者だ」と詩人金子光晴は唱いました。それでも、幸せだったといえる人生とはどんなものなのでしょうか。

先日、「なんで山なんか登るの?」と人に聞かれました。その時は、万感の思いがあって答えられなかったのですが、今この映画を思うと、ひとつだけここで言い得るような気がします。たまに、生きるのに必要最低限のものだけこの肩に全て背負って山に入る、そのことで、自分にとって、ほんとうに大切なものは何か思い出せるんじゃないか、と。人生は無駄な部分にこそその豊かさがあるのかもしれませんが、ときどきは、そぎおとしてそぎおとして見えてくるものもあるんじゃないか。

この「たそがれ清兵衛」は、山に登らない人たちにも、そんな気持ちを一瞬抱かせてくれる効果があるかもしれません。クロサワというより小津安二郎的な地味な侍映画ですが、自分を見失いそうになった時、是非おすすめしたい珠玉の佳品です。

投稿者 administrator : 22:44

2004年02月18日

「MUSAー武士ー」クロサワ魂の後継者韓国にあり

現在、浜松松菱劇場で公開中の韓国映画「MUSAー武士ー」すごかったですよ~!

全盛期のクロサワ映画が再来したかと思いましたよ。

掲示板に載せた以外も、年末年始腐るほどアクション映画を観たのですが、これが最近のベスト1です!「ラストサムライ」の十倍はいい。韓国の武侠映画なんてめずらし~くらいの動機で見に行ったのに、臓腑にどかん!ときてしまいました。

14世紀後半、高麗が朝鮮に、元が明にとってかわろうとしていた大陸激動の時代。高麗は明に4回使節団を派遣しているらしいですが、そのうち一つが帰ってきた記録がない・・・
その史実を踏まえて、映画は「幻の使節団」の運命に思いを馳せています。「MUSA」の中で、若き将軍チェ・ジョンに率いられたその使節団は、明王朝にスパイ容疑で砂漠に流刑に処せられます。流刑地に赴く道中、一行は元(蒙古)軍に襲撃され明兵は虐殺され、敵対関係にない高麗使節団は、解放されます。彼らは、砂漠を渡り、故郷への困難な道を歩み始める・・・
 そして、偶然元軍に拉致された明の姫に出会い、姫を明王朝との交渉の道具にしようと、元軍から奪います。それが、彼らの運命をより苛酷な状況へと追いやるのでした。

この映画の魅力は、歴史を踏まえたリアルな状況描写と、ワイヤーワークスに犯されないこちらの肉と骨に響くような迫力の殺陣、登場人物たちの、運命を甘受しながらなお凛と生きる誇り高いたたずまい、などでしょう。
そう、往年のクロサワ映画のようでした。

クロサワの継承者が、韓国にいたとは驚きです。文化というのは、おもいがけないところに、脈々とつながっていくのですね。日本では、もうこんな映画はたぶんつくれないかもしれません。
この映画に出てくるような惚れ惚れする面構えの役者さんも、残念ながらいないのでは。最初主役かと思われた高麗の若い将軍は、現代的な整った顔立ちでつまらないのだけど、物語がころがりだした頃、立ち上がり出す真の主役たちの顔が、知性に富んで品格のある凶暴な獣のような顔で、その強い視線が、もうまっすぐに胸を射抜いてくるんですよ。

この映画にも、ラストの詰めが甘いなど、確かに欠点は多々あります。
でもいいの、そんなもの。欠点を補って余りある魅力があるから。

ところで!松菱映画は、カップルで行くと毎日一人あたり1000円で観られます。
たまには、パートナーとご一緒にいかがですか?

ばりばり骨太硬派の男性向き映画ですが、たぶんパートナーの女性は、韓国男優にぼ~と・・・それはまずいかな?

この映画は、ビデオでは魅力激減。映画館向けの作品ですよ~
ピグモンはたぶん、も一度映画館で見ると思います。
イメージトレーニング、イメージトレーニング・・・

投稿者 administrator : 22:47

2004年02月11日

「赤い月」―満州引き揚げの真実

只今公開中の映画、「赤い月」を観てきました。
直木賞作家なかにし礼氏の満州引き揚げの実体験を、彼の恋多き奔放な母を主人公に据えて書かれた同名小説が基になった作品です。

1945年8月、ご存じの通りソ連軍が満州に侵攻します。
小樽から満州牡丹江に渡り、関東軍と結びついて成功した造り酒屋(なかにし礼氏の実家)もそれにより崩壊し、母子がハルビンへ渡って翌年日本に引き揚げるまでの、多彩で複雑な人物達の死に様生き様が凄絶に描かれています。

少林寺の開祖も同様に苛酷な満州引き揚げを経験されて、それを通して、「人・人・人・・・全ては人の質にある」という認識と、アジアの平和への決意を固められたようですね。
「引き揚げ体験」といっても、なかなかわかりにくいものですが、この映画「赤い月」を観ると、その一端がうかがえるように思います。そういう意味で、拳士の方々におススメの作品かもしれないので、書き込みさせていただきました。

また、歴史の一面をリアルに教えてくれるという側面以外にも、人間の業とは何かも考えさせてくれる、なかなかの佳品だと思います。
たとえば、女主人公が、夫がありながら美貌の関東軍諜報員に恋をしてしまいます。そして、嫉妬から、彼と恋仲になった自分の娘のロシア人女性家庭教師をスパイだと密告し、結果として、ロシア人家庭教師をその恋人である関東軍諜報員に処刑させてしまうのです。その後の主人公と諜報員の因縁には、人間の罪深さ奥深さを感じ入らざるをえません。

主人公の激しい生き方に共感できるか否かで、この映画の賛否は別れるかもしれません。
そんなに自分たちだけ生き残りたいのか、みにくい、という娘に母は叫びます、「美しいもみにくいも、生きていなくちゃわからないじゃないか」と。あのせりふは、善悪の彼岸にある価値観だな~ 
強制労働で死んだ夫の死を告げられた時の、「国のために死ぬのが立派なことですか!生きてこそ立派なんじゃないですか!」このせりふは、サマワの自衛隊員に贈りたいかも・・・

<以下、追記>

先の映画中でも、関東軍が満州在留邦人を見捨てて遁走した事実を突いているのですが、ご関心のある方には、『ソ連が満州に侵攻した夏』(半藤一利著/文春文庫)をおススメします。いざというとき軍は国民を守らない、ということがなぜ起きたのか、これからも起きるのか、一考させられます。

個人的には、侵攻したソ連軍の暴行や略奪を、スターリニズムと関係づけた鋭い分析が興味深かったです。

投稿者 administrator : 22:47

2004年01月21日

「HERO~英雄」―芸術を目す武侠映画

あの武侠映画の最高傑作『HERO~英雄』が、1月23日(金)ビデオ・DVD発売レンタル開始します!
惜しくも劇場でご覧になれなかった拳士の方々に、ぜひおススメの作品で~す♪

秦の始皇帝暗殺を謀る無敵の刺客3人を倒したと称して、始皇帝に謁見する謎の男「無名」(ジェット・リー)。やがて、その男と皇帝が語り合いつつ真実にたどり着く時、「武とは何か」をお互いに悟ることとなる・・・
「武は戈を止める」という部分が曖昧なまま、自衛隊がおとといイラク入りをしましたが、この映画を観て、拳士としても、日本人としても改めて武の意義を考えてみる良い機会かも!?

そんな”哲学的”な側面は置いておいても、この映画の超現実的な色彩感覚の豊かさ、中国の荘厳な大自然の美しさ、超一流のマーシャル・アーツの見事さはまさに眼福の一語です。
物語はそれぞれの語り手の視点によって、衣装も背景も自然さえも、文字通り色合いが鮮やかに変貌します。嫉妬の赤、無垢の青、真実の白・・・それぞれの色彩に託された情念は、見る側によってもその意味合いを変えていくでしょう。
ワイヤーワークスは、行きすぎると苦笑を生みお嫌いな方も多いでしょうけれど、この映画では、一流の武道家として鍛え上げられた筋肉があるからこそ、吊り上げられても凛と美しい型が保てるのだと、思わず納得してしまうのではないでしょうか。

それに、武侠映画としてだけでなく、ジェット・リーを語り部にした、残剣(トニー・レオン)と飛雪(マギー・チェン)という二人の刺客の恋愛映画としても楽しめると思います。この二人の恋愛は、武術家同士のそれですから、あくまで純粋で厳しいんですよね。
昨今の「ぬるい」恋とは違います。文字通り「痛い」恋愛。 とくに喧嘩した時(笑) 少林寺拳法をともに修行していらっしゃる、カップルやご夫婦が少ないわけは?
俳優お二人とも実年齢は確か四十路なのに、恐ろしいほど艶やかで・・・ひさびさに映画の中で、ため息が出るくらい美しい男女、を見たような気がします。
余計なことですが、個人的にはトニー・レオン大好きなんですよね。線が細くて思慮深かそうなのに、ハードボイルドな役柄も似合うところが。
特にいつも憂鬱そうなのに、瞳があくまで冴え冴えと澄んでいるところとか。
(いつも陽気なのに目が死んでる奴は恐い・・・)

投稿者 administrator : 22:48

2004年01月03日

「ラストサムライ」―ゲテモノなれど志あり

ピグモンは、大晦日に、今話題の映画「ラストサムライ」観てきました。
武士道は武道哲学でもあるので、ご興味を持たれている方もいらっしゃるかもしれませんので、ご紹介させていただきます。

全体の印象は、『ラストサムライ』というより西部劇『ラストモヒカン』?曖昧な時代考証とかステレオタイプの日本観とか、思わず苦笑する場面も。それでも、異文化に敬意を払おうという米国制作陣の姿勢は、とても好感を持てたし、なにより、真田広之始めとして、殺陣(たて)はすごかったです。日本を見直す、というよりも、「チャンバラってやっぱりおもしろい!」とわくわくできる映画でした。

それにしても、映画の本筋とは関係ないのですが、近代と反近代の闘いって、ある意味で、ハイテクとローテクの闘いでもあるのですね。この映画のサムライ集団と官軍の戦闘シーン(かなりデフォルメされているけど)を観て、むか~し、第二次世界大戦時ドイツの最新鋭戦車隊がポーランドに侵攻した際ポーランド側が騎馬兵で迎え撃ったと聞いた折りの、痛切な気持ちを思い出しました。今も、イラクでは、迫撃砲をロバの荷車に積んだゲリラが、米国ハイテク武装集団と戦っているし?

でも、時代を先取りしたハイテクがいつも勝つとは限らないから、歴史は面白い。ベトナム戦争では、高性能だったM16ライフルはジャングルの湿気などで狂いやすく、原始的なソ連製AKライフルに負けたと言われていますし。
そう、『ラストサムライ』の中でこんなせりふがありました。
  勝元(渡辺謙)「運命にさからうのか?」
  オールグレン(トム・クルーズ)「いや、それが運命(さだめ)とわかるまで最善を尽くす」
この言葉がとても好きです。

投稿者 administrator : 22:55