2005年01月05日

拳禅一如

少林寺拳法は、身体を鍛えることを通して心を養う修行法であり、拳は肉体の鍛練を、禅は精神修養を、それぞれ意味している。

人間にとって、心と体は別々のように見えても、決して別々のものではない。精神的なストレスが身体的な病気を引き起こすこともあるし、逆に病気や怪我によって気持ちが沈んだりするものである。だから、修行もまたどちらかに偏ってもいけない。

少林寺拳法は、肉体を苦しめたり苛めたりすることで精神の修養のみを求めるのではなく、健全で剛健な肉体を育てつつ、上達を楽しみ、自己を見つめる拳禅一如(霊肉一如とも言う)の修行法なのである。

投稿者 administrator : 23:17

力愛不二

拳法の修行を通して身に付ける強さ、力は、人を愛する心や優しさと、相反するものでしょうか?いいえ、この両方の働きが調和・統一された状態こそ少林寺拳法の目指す人間像です。

ほどほどに優しく、ほどほどに厳しいというのではなく、無限の愛と、底知れぬ力の両方を持った人間こそ、他者と固く強い心の絆を結ぶことができるのです。

自分自身に対しても、同様です。人は誰でも自分がかわいい。でも、本当に自分を愛するのなら、風にも当たらないように自分をかばうのではなく、何よりも自分に厳しくしなければ、自分をたくましく育てることはできません。

投稿者 administrator : 23:17

守主攻従

まず守り、それから反撃するという意味です。すべての技法は「まず受けからはじまり、完全な防御を行った後、反攻に転ずる」という形、これが少林寺拳法の大原則です。

これには2つの理由があります。

第一の理由は、少林寺拳法の修行の目的が人間形成にあり、敵を倒すことだけを目的としないからです。もし、拳法の力を行使する場合も、正義正法を守るため、あるいは無法者の暴力から隣人や自己の安全を確保するためだけに使う「破邪の拳」でなければなりません。たとえどんな理由があっても自分から先に手を出してはいけないという考えです。

第二の理由は、技術的なもので、絶対に負けない体勢を保ち、相手のスキを捉えて攻めるためです。ですから、少林寺拳法では受けの練習を非常に重要視します。

投稿者 administrator : 23:16

不殺活人

少林寺拳法の技術は、人を傷つけたり殺したりするためのものではありません。自己の身を守り、他人を助けるための技術です。そして、修行を通じて人間を教育し、社会のために貢献することを目的としています。そういう意味が、この「不殺活人」「活人拳」という言葉に込められています。

その技法は、相手を殺傷させず、痛みだけを与えて制圧する理想的なものです。これには、数千年の伝統を持つ東洋医学の経脈医法に基づいた、急所の活用が生きています。正しく活用すれば、腕力のない女性や子供でも大の男を制することが可能です。

投稿者 administrator : 23:16

剛柔一体

少林寺拳法では、パンチ・キックに代表されるような技法やそれを受ける技法の「剛法」と、投げ技・逆関節といった「柔法」と呼び、両方を練習します。

この2つの技法には、相互の優劣はなく、両者が一体となってはじめて護身の技として威力を発揮します。また、どちらかを先に用いるという順序もなく、剛柔両方の技が混ざったような技もあります。両者を身に付けることで、広い応用が利き、様々な攻撃に対応することができるようになります。

投稿者 administrator : 23:16

組手主体

少林寺拳法は、単なる健康法としての体操でも、美しさのための舞踊でもありません。護身錬胆と正法護持のための武道です。ですから、あらゆる技法は相手がいて行われるものです。そのための修練は必ず二人ずつ組んで相対演練を行うのが原則です。

そのため、上達するためには相手との協力関係が求められ、自分の上達が相手の上達につながり、相手の上達が自分の上達につながります。自分だけが上手くなれば良いのではないところから、協力し合う心・協調性が育まれ、人格の向上もはかられるというものです。

投稿者 administrator : 23:15