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2005年02月10日
ピグモンの映画道場・・・『誰も知らない』ー誰も責任をとらない
主演の14歳(当時)柳楽優弥君が、先年カンヌ映画祭で主演男優賞に輝いたことは、まだ皆さんの記憶に新しいかと思います。その美少年ぶりが多くの婦女子(一部男子?)の心を騒がせましたね。
その明るいニュースとは裏腹に、この映画は、「西巣鴨子供4人置き去り事件」(‘88年)と呼ばれている暗い事実を基にしています。出生届けの出されていない子供4人が、母親に出て行かれた後アパートの一室で生活苦にあえぎ、一番下の女の子が変死することになった、あの事件です。
とはいえ、この映画は、社会派ドキュメンタリータッチの作品ではありません。芸術的完成度に腐心した、一種絵画的な作品といえるでしょう。
画面は、一つ一つ細部までリアルでありながら、叙情に満ちて美しく、出てくる人物は、皆共感を持って温かく描かれています。終始淡々とした語り口が、あの事件を生きた当事者たちの悲しみを、切々と浮かび上がらせていきます。子役も脇役も、みずみずしい自然体で演じていて、申し分ありません。
しかし、見終わった後、その爽やかさが妙に腑に落ちず、心の上っ面をなでさすられただけのようなはがゆさを、ピグモンは感じてしまいました。
監督は、まるで主張や価値判断というものを放棄してしまっているようです。それは、何か悲惨な事件が起こるたび、わかりやすい何かに責任をなすりつけてバッシングし、決して本質を問おうとはしない世間に対する監督の戦略なのかもしれません。
たとえそうだとしても、その、あくまで誰も裁かず善悪を判断しない、透明で優しい傍観者の視点が、かえってこの映画から深みを奪ってしまっているような気がしてしまうのです。
「仏は溺れる幼子を見ても何もしない、それが仏だ」(吉田知子『無明長夜』)といいます。それはあくまで仏であって、人ではありません。仏の視座から、あのような事件を語られるより、監督自身の生き生きとした苦悩にもっと触れてみたかった。
中国には、「その人の一生をめんどう見るつもりがなければ、命を救うな」ということわざがあるらしいです。それだけの覚悟もなくて、誰かを助けようなんて思い上がるなよ、という意味でしょうか。重い言葉です。
その重さから逃れるために、人はしばしば「個人の自由」を口にします。どんな生き方も自由、死ぬも生きるも私の勝手、他人の人生に口をはさむな…おっと、行き過ぎると、なんだか、貧窮や老人・子供の遺棄、ドメスティック・バイオレンスなんかも、個人の生き方の問題になっちゃいそうですね。
この映画の中で、置き去りにされた子供たちにも、さまざまな他者が係わってきます。けれども、皆心地よい距離を置いて、決して子供達の生活の痛い本質に踏み込んではきません。「警察や民生委員に知られたら、きょうだいがバラバラになってしまう」という長男の<意志>を尊重しつつ。優しい傍観者、そのものです。
それは、ピグモン自身を含めた多くの日本人の、他者や社会に対するスタンスなのかもしれません。それどころか、社員になると責任重いからフリーターの方がいい、とか、愛も信頼も負担だから結婚したくない、とか、自分自身の人生に対してさえ傍観者のようでありたがる、若者(どころかいい年をした大人)も増えています。
粗忽者のピグモンは、幼少よりよくモノを壊します。「花瓶が割れた」「鍋が焦げた」と言っては、そのたび、親や配偶者に「割れた、ではなく割ったでしょ」、「焦げた、ではなく焦がしたでしょ」とツっこまれています。確かに前者のような言い回しは、行為の主体を曖昧にすることで、責任の所在をぼかしていますね。無意識にね。
この映画の最後、置き去りにされたきょうだいの一番下の女の子が、椅子からうっかり落ちて、打ち所が悪くて死んでしまいます。まるで自然の摂理のように、あっさり死にます。けれど、実際の事件では、長男の遊び仲間の中学生たちが中心になった凄惨なリンチ殺人だったとのことです。それこそ、「死んじゃった」ではなく、「死なせた」でしょ、です。
『誰も知らない』は、世評はどうであれ、鋭い問題提起になりうる悲惨な現実に光をあてながら、それを口当たりの良い都会のおとぎ話に変えてしまった、実に惜しい作品に思われてなりません。
願わくは、観客を清らかな涙で免罪するよりも、もしこんな事件がすぐ隣で起こりつつあったとしたら、自分はどうするのか、悪夢でうならせてほしかった。
さらに言うならば、「おごそかに糾弾し、涙を流して礼拝し、すみやかに忘れ、責任を問われれば人生は虚無だとつぶやいてうなだれる芸もちゃんと心得た」(開高健『ベトナム戦記』)そんな私のような大人たちを、許さないでほしかった。
投稿者 administrator : 2005年02月10日 00:34