« 2004年04月 | メイン | 2004年09月 »

2004年06月30日

初凧天高く、舞い上がれ!」

『オイショ。ヤッチョ!』の声も高らかに、今年も浜松まつりがやってきた。

祭り好きの私にとって待ち焦がれた時期である。増してや、今年は初孫の「初」をやることになった。去年1月、長女に男の子が生まれた時から来年は「初」をやろうと決めていた。「初」とは子供の誕生を祝うため、初子の名前入り大凧を揚げ、夜は町内の若衆を自宅に呼び、祝い練りを受け、全町民から祝福されるという最高の祝い事である。

「初をやろう」娘曰く、「勿論よ!」意見は即一致した。今年3月から準備に取り掛かり、町内若衆400人に出す接待料理の内容、自宅で作る汁物の段取り、招待する親戚・友人の確認、宴会料理の手配、凧場への移動手段、駐車場の確保など検討事項は山積している。勿論、今までに経験が無く多少の不安があったが、初孫の笑顔を描き、半分楽しみながら家内と検討を重ねていった。お陰で、4月末には全ての懸案事項をクリアし、祭り本番を待つに至った。

5月3日祭り当日。タクシーを連ね、凧揚げ会場に向かう。風が無いことにやや不安を抱きながら期待で胸が躍る。孫の初凧は5畳と、10畳の2枚。10畳の方は、私が入会している町内凧揚会で作った初凧である。たまたま「初」をやる仲間に恵まれ、連名という形で作っていただいたものである。午前11時過ぎ、役員に案内され、親戚一同と共に凧揚げ現場に入る。孫の凧は自分で揚げるつもりでいた為、迷うことなく糸先につき、糸を肩に掛ける。『よし、行こう』風が少し出たところで一気に引き、後ろに走る。5畳の初凧が空に舞う。途中、ガラ(糸を緩め、出すこと)を数回行う。風が十分有れば凧は自然に上昇するが、今日は違う。風が無く、十分な揚力が得られず下がる一方である。良いところまで行くが、途中他の凧と絡み落ちてしまう。これを何回か繰り返す。1時間奮闘したが、結局揚げることができず断念。親戚一同より拍手をもらうが・・・。他の初凧も同様であり、空を眺めても天高く揚がっているものは無い。今年、町内の初凧は5畳3枚、6畳1枚の計4枚である。全てが揚がらずじまいで午後2時が過ぎた。

『10畳を出すか』風が無い時は、大きな凧の方が揚力を受ける面積が大きい分有利である。5畳、6畳が多い中、10畳はさすがに大きく圧巻である。親戚一同の『おー!』という歓声の中、3人掛かりで引っ張り後ろに全力で走る。凧は安定しながらゆっくりと上昇する。他町の人達の注目の中、引きと緩めを繰り返し、糸を伸ばしていく。5畳の時とは違い、確実に高さが増していく。揚がったぞ!! ラッパ隊の応援により『バンザイ、バンザイ』を叫ぶ。今までのもやもやが一気に解消され爆発した。大成功である。大凧は五月の空、天高く揚がっている。

興奮の渦の中、初日の凧揚げは終了した。本日、娘夫婦も感動していたが、一番燃えたのはこの私であったことは間違いない。さあ、これから家に帰り、更にエキサイトする夜の『練り』接待の準備に取り掛かる。今日は最高の日になりそうである。

投稿者 administrator : 22:41

2004年06月11日

「イノセンス」―あらかじめ失われた身体たちへ

「中心がぶれている」「腰がふらついている」「からだが浮き上がっている」

これらは、ピグモンが道場でたびたび指摘される事柄です。
う~ん、そうおっしゃられても、なかなかうまくつかめない。
私のカラダって、いったいどうなっているのだろう…

そんな時ふと、ちょっと前のベストセラー、あの『声に出して読みたい日本語』の著者、斉藤孝氏が第14回新潮学芸賞をとった『身体感覚を取り戻すー腰・ハラ文化の再生』(NHKブックス)という本を手に取りました。

著者はこう問題をなげかけます。

「最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかりここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、『腰が据わっている』や『腹ができている』や『地に足がついている』といった感覚を自分の身において実感できる者はどれだけいるであろうか」

うぅ、言葉もない。少なくともピグモンに関しては。私って骨なしクラゲのような存在かも…

こうした問題が、なぜ現在日本人のカラダに起こってきたか、著者はあえて一言で、〈中心感覚〉が失われているゆえではないか、と答えています。

そして、それはかつての日本文化が持っていた、腰・肚(はら)中心の体感覚との文化的断絶に、起因しているのではないだろうか、と。

「腰や肚を強調していた時代には、身体の中心感覚を常に意識することをもとめられていた。子どものころから腰が入っていなければ馬鹿にされるという慣習があり、しっかりとした中心感覚をつくりあげることが明確な課題となっていた。『腰ぬけ』『へっぴり腰』『腰くだけ』『および腰』『逃げ腰』『弱腰』『肚がない』『肚がきまらない』『腑抜け』などは、身体に中心感覚あるいは中心軸の感覚ができていないことに関する厳しい批判の言葉である。…(中略)

腰や肚ができているかどうかは、たんに身体の中心感覚だけではなく、心の揺るがなさをも含んでいる。当時の人々にとっては、心とからだは切り離すことのできないものであった。へっぴり腰でありながら、揺るがないしっかりした心をもっているというようには考えられなかった」

うわぁぁ、ごめんなさぁぁい。泣きながら走って逃げたくなる。ピグモンが道場で指摘されていたことは、こういうことだったのでしょうか。

私のカラダには中心がない。カラダの中心がないということは、心の中心もない、ということ?

『身体感覚を取り戻す』(斉藤孝著)は、ここから、あらゆる文化的境界を越えて深く穿孔(せんこう)しながら、身体の再生を目指し、死力を尽くして論陣をはるのですが、とりあえず身体という問題の提示だけにとどめ、それ以降はいつか触れることにさせていただきましょう。

で、おくらばせながら、映画『イノセンス』。

ピグモンはこれを観て、「透明な存在としての私」と言った中学生、「人を殺してみたかった」高校生、そうした子供達が、現代という神無き荒野を生きる自分と同じ人間であって、決して遠い存在でなかったという衝撃を受けましたよ。

映画のクライマックスで、自分のしたことで人がどんなことになるのかわからなかったのかと、主人公の刑事バトーに言われた少女は、こう叫びます。

「私は人形になりたくなかったの!」

(※以下ネタばれあり。未見の方は、そのおつもりでお読みください)

映画の舞台は近未来。人間の脳は、ネットの膨大な情報に直接つながれ、人々の身体は、一部あるいは脳以外の全てが機械化されている。

そんな人間とサイボーグ、あるいはロボットの境界が非常に曖昧な世界で、少女の姿をした愛玩用アンドロイドが、所有者である権力者・富裕層の人間たちを殺害後自壊するという暴走事故が相次ぐ。

事件がテロではないかという疑いのもと、公安刑事のバトーとトグサが捜査に乗り出す。

捜査が進むにつれ、意外な真相があきらかに。

少女型愛玩用アンドロイドの人工知能には、人身売買でアジアから売られてきた、生身の子供達の脳がトレースされていた。

完璧に美しい人形に、魂があった方が、玩具として面白いから。

事件を起こせば、だれかがその事実に気づくかもしれない、と子供達は、自分たちの脳が自壊によって焼き切れるのもかまわず、次々と所有者を殺していたのだ。

これを虚構と笑う無かれ。

現に今を生きる子供達、いや1960年代以降に生まれ、古い共同体や自然が破壊される中に育ったいわゆる「オウム世代」の大人達の現実感覚に、この物語は実に寄り添っているように、ピグモンには思われたのでした。

『イノセンス』監督の押井守氏によると、この映画における電脳化・機械化された人間たちは、そのまま現代人の姿であるといいます。

「生活を都市機能に依存し、記憶や思考をネットにかたがわりさせている。自分の存在が、自分の体で完結せず、ブレていて、肉体を喪失した欠落感をかかえている」(押井守)

振り返るに、高度経済成長、列島改造論そしてバブル景気で、鳥や虫や獣、つまりは命との交歓の場であり、遊びを通じた他者との身体的交わりの場でもあった自然は、大規模に破壊されました。古い共同体の消滅に伴い、反抗するにしろ受け入れるにしろ、とりあえず心の中心軸であったはずの、伝統や宗教心、そして最低のモラルという「型」も見失われてしまいました。

そんな中、まだ自我もあいまいなまま、コンクリに囲まれ、テレビやインターネットという仮想世界が常に意識になだれこんできていれば、なにが現実で虚構なのか、自分が何者なのか、身体も含めて、どんどん曖昧になってきてしまうのは当然です。

そう、今の子供達の多く、あるいは私のような「オウム世代」の一部は、「サイバースペースで見られるように、人間の経験が身体から乖離(かいり)する時代」(大澤真幸:朝日新聞’04.3.5朝刊『対談オウム事件が問うたもの』)を生き、「自分で体験せずに頭の中で全てのイメージをつくりあげてしまい、地に足がついていない」(養老孟司:同掲載)のかもしれません。

身体感覚があらかじめ壊れている子供達、そんな子供達が成長した大人達は、自分のイメージする現実と相反する他者と、向き合うことを徹底的に拒否して引きこもったり、自分が生きているということを実感できず、自傷したりする。

あるいは、精神と身体が不可分のものとは思えず、苦行を強いて時には他者の命なぞ何とも思わないような宗教にのめり込んだり、身体を精神より下等なものとして軽蔑し、セックスを忌避したり、あるいは、妄想という形でしか異性と交われなかったりする。あるいは、その反動で、希薄な精神への不安からか、過度に体を鍛えることにのめり込んだりする。

ときには、自分や他人が不気味な機械や人形ではなく、生身の人間なのだと知るためだけに、

あるいは知らせるためだけに、人を殺したりもする…

身体は、「私」のものであると同時に、世界と「私」の接点なんですね。

そういう意味で、身体は、〈中心化〉=自己確立化する、と同時に、〈脱中心化〉=他者への認識を確立化するという作業が、そこで同時に行われる場なのですね。

そうであるならば、身体感覚が未熟だったり破壊されているということは、自分自身と他者を、ときには両者の命そのものを、軽んずるということにも通じていくのかもしれません。

こうしたことを考えながら、この映画を観ると、〈拳禅一如〉つまり身心一如を終戦直後から唱え続けてきた少林寺拳法というものは、まるで現在の社会を予見していたかのようではありませんか。少林寺拳法は、ある意味で、実に優れた哲学的「身体論」の実践であり、今を生きる人々、特に子供達にとって、切実に必要とされる現実的経験に思われてなりません。

とはいえ、『イノセンス』の監督押井守氏は、現代思想の極北までイッてしまっている人なので、このような解釈だけでは済まされない計り知れない部分が、この映画にはあります。

現代において、虚構もまぎれもなく現実の一部で、確固とした唯一無二の現実なんかない。

内にも外にも、中心などどこにもありえず、もう身体も本能も、とうに取り返しのつかないほど壊れに壊れてしまっている。

だとしたら、魂だけでいいんだ。それさえあれば、世界の中で「我」は存在する…

そんな風に観客を挑発している節も、見られます。

たとえば、主人公である公安九課の刑事バトーは脳以外を全て機械化されているのですが、同じ九課の素子という、やはり脳以外全て機械化されている「女性」に恋情を抱いています。

しかし、『イノセンス』の前作にあたる『ゴースト・イン・ザ・シェル』のラストで、素子は、人間としての姿さえ棄てて、電脳空間の中へ魂だけの存在=ゴーストとして自ら去ってしまいます。決して、肉体の交わる可能性のなかったサイボーグである二人は、さらにお互いの存在を実在としてではなく、気配として感じ取れるだけの関係になってしまうのです。残されたバトーは、現実と仮想現実の間を、どこまでも醒めた意識でさすらい、家に帰れば、命のぬくもりを慈しむように、飼い犬に心を寄せる日々を送っていました。

『イノセンス』では、そんな二人のつかの間の再会を描いているのですが、結局、また素子は、電脳空間の中へ、別れも告げずたちまちにして消えてしまうのでした。

「孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく、林の中を進む象のように」という、仏陀の言葉を残して。

押井守監督は、あるインタビューで本当の愛情とは、会うことではなく、相手の存在を感じ取れればいいんだ、恋愛という概念もそこまですすんでほしい、と戦闘的に述べています。一緒に暮らすとか一生添い遂げることが、なぜ強い愛の証明なんて言えるのだ、と。

そこまで言い切りながら、監督は、「それでいながらバトーは、痛切に素子という存在を求めているのではないのですか」というインタビューアの問いかけに、一転して言葉をやわらげます。

そう、人間はやはり一人では生きていけない、一人では生きていけないという切実さの中でもがいている者にこそ、他者は存在する、と。

今という時代を、徹底的に研ぎ澄ました感性で見、冷徹な表現者であろうとする気概を持つ人間だけが、持ち得る世界観。

この映画の、理解を拒否した難解な表現が、観客の共感をはばむかもしれませんが、その痛切な危機感が、同時代の人間として、ピグモンの心の琴線には大いに触れました。

この映画では、登場人物たちは、なべて無表情で、自分の言葉でなく他人の言葉の引用ばかり、人間そのものが描かれていない、と批判される方もいるのは確かでしょう。でも、ピグモンは逆にそういう方に尋ねてみたい。

そうおっしゃる人間とはなんですか、人間と精密な機械の違いはなんですか、あなたの言葉はほんとうにあなたの言葉ですか、あなたの記憶や思考もほんとうにあなたのオリジナルですか。

この高度消費社会では、欲望さえもが、ほんとうに自分が欲していることではなく、欲望させられている可能性だってある。

ああ、もう理屈はいいですよね。

実は、ピグモンは、この映画の冒頭シーン、絢爛たるCGで、一見受精卵かと見えたものが、実は生化学的機械、それがまるで人間の細胞分裂のように、分化を繰り返して、アンドロイドが出来上がっていく画面に、歴史の裂け目から吹き出てくるような御詠歌を模したテーマ曲がかぶさるだけで、もう落涙滂沱でした。

人間でないものを通して描かれる「人間であることの悲哀」が、惻々(そくそく)と胸にしみる、ピグモンにとっては、そんな希有な映画だったのです。

投稿者 administrator : 22:42